やりたい奴がやりたいようにやるのがいい(いかにして私が体育会系ノリを嫌うようになったか)
1年生は赤ジャージ上下。2年になると上に着る服は自由になる。で、Tシャツは着てもいいけど、裾はズボンに入れなきゃならない。レギュラーになると私服がOKになる。レギュラーじゃないともう1学年上にあがってやっとズボンからTシャツの裾が出せる。
今日、久々にこの手の話を聞いた。Kくんから聞いた大学の学連の自転車部の話。
強くなるのにまったく無関係な無意味な上下関係。某首都大はそういうくだらない上下関係がなくて、そういう意味で好きだった(現役の頃は熱気球のサークルなので、ちゃんと体育会系の作法を知っているわけではないが、それでも、理不尽なバカな風習なんてなかったことは周りからの話で知っている)。
たとえば。
某私立大学。鬼コーチがいる(らしい。K君から聞いた。コーチ料金とかどこから出ているのかは私は知らない)。
レースの一番大事なところで怒って叱咤激励を入れるらしい。そのことの是非は問わないが、一番大事なところで叱咤しなきゃならないんなら、あなたの育てた選手はそこが大事だ、って自分で判断できない上に、そこまで足を残せていない弱い選手なんでしょ? 俺はそう思う。
鬼コーチがいないと強くなれないなんて、そもそもおかしいと思うんだけどな(コーチがいると強くなる、ということには賛成、鬼的存在のコーチが嫌いなのだ)。強くなりたい、という気持ちを持ちつつ、自分の日常に当てはめ、自分なりに咀嚼してメニューをこなす、という方が外の世界とも関係が持て、なおかつ効率よく強くなれると思うのだが。
ただ。
かみさんとこのテーマで話し合ったところ、「怖い怒る人(先生)がいる方が、宿題とかの提出率がよい」なのだそうだ。
まあ、結論から言うと「自主的に頑張れるやつが強い」ということだと思う。
コーチングは自主性を引き出してなんぼだと思うのだが、そうではなく怒ることでコミュニケーションを図るという手法。その手法はまったく認めがたいが、その一方で、かみさんがいうような怖く怒る先生がいると宿題が提出力がいいというのは、つまるところ(自転車という限りなく自分で勝手にやっている)競技をしながらも、義務教育的なノリがある、ということなんだと思う。
言葉を変えれば「車連ベースでもみなが本気で自転車に取り組めていないから、そういうコーチの活躍する余地がある」ということなのじゃないかな。だから、鬼コーチの跋扈する余地があるし、みんなもそのやり方を認めているわけで。あと、高校からの推薦で「自転車やっています。これで大学生活まっとうするつもりです」とか言って鬼コーチあたりに怒られてタイムが上がっちゃったりなんかするんなら、それはそれでいいでしょう。そんな人はそのまま卒業とともに消えるでしょう。
大事なのは自主的に考え、どうするのかだと思っています。結果的に強いともう申し分ない(今の首都大学の自転車部の成績は昔に比べてかなり上位に食い込めているようです。というか、できている)が、やりたい奴がやりたいようにやるのが一番いいのです。興味のない人は結局やらないんだし。やらされている奴なんてましてそれ以上に思い切って取り組まないわけで。
要するに、どんな鬼コーチがいようとも、自分がやろうと思うか、思わないか、そのことだけなんだと思っています。
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